足摺岬(あしずりみさき)・Ashizuri Cape
[高知県]
2025年8月12日
高知県土佐清水市(とさしみずし)
四国最南端
足摺岬(あしずりみさき)
中3の長男と高知ふたり旅
圧巻の海景色
足摺岬の断崖にたつ、白亜の足摺岬灯台(あしずりみさきとうだい)。
高さ18m。
光度46万カンデラ。
光達距離38km。
日本でも最大級の灯台のひとつで、大正3年(1914)に点灯されて以来、
ずっと沖をいきかう船の安全を見守りつづけている。
土佐清水市といえば、このお方。
中浜万次郎(ジョン万次郎 1827.1.1〜1898.11.12 )
中浜万次郎像
近代日本初の国際人
土佐藩中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)の出身
1841年 出漁中に遭難するが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号の
ウィリアム・H・ホイットフィールド船長に助けられ、
船長の生地フェアへーブンで学校教育をうけるとともに見聞を広める。
1851年帰国後、その国際知識をかわれて幕府直参となり、
1860年には遣米使節の一員に加えられるなど、開国に向けて大役を果たす。
そして1898年71歳の生涯を閉じるが、広い視野に立ち、日米交流の礎を築いた万次郎の功績は、
国際化時代の今日ますます意義深いものとなっている。
また、土佐清水市は1987年12月、万次郎のご縁でマサチューセッツ州フェアヘーブン、ニューベッドフォードと
姉妹都市を結び友好交流を深めている。
中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史の影で
大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。
万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。
14歳の時、出漁中嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、
半年ののち、運よく通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助された。
ウイリアム・ホイットフィールド船長は、万次郎少年の人柄を深く愛して
本国に連れ帰り、3年間正規の学校教育を授けた。
万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第一号となった。
彼は10年におよぶ国外生活中、ジョンマンと呼ばれ
英語、航海術、測量術、捕鯨術などを習得し、二度に亘って七つの海を周航した。
しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこに残して来た母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰って来た。
この時、1851年2月、かの黒船の来航に先だつこと2年であった。
このような時機も幸いして、彼は罪にとわれなかったばかりか
苗字帯刀を許され幕府の直参に取り立てられた。
これより中浜万次郎は、外国事情の講話やアメリカ航海術書とか、
公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。
洋式船の操術や捕鯨にも長じていたので、実施の指導にもあたった。
日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功の影には彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。
帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰った。
また、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だと言われている。
明治2年には東京大学の前進である開成学校の教授に任ぜられた。
44歳の時、少し健康をそこねて公的な活動からしりぞき数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。