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2018.11.08

青砥 武平治(あおと ぶへいじ)さん

[記録]

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江戸時代、城下町の村上の大切な資源だった鮭が
江戸時代後半、急に鮭が獲れなくなってしまいました。
鮭の生態もわかっていなかった時代、
一人の侍が立ち上がりました。
青砥武平治(あおとぶへいじ)さんです。
世界で最初に鮭の回帰性の習性に着目し、
好き勝手取らずにサケを保護していかないと
サケがとれなくなるぞ!と『種川の制』を考案した村上藩士です。
川底を砂ジャリに、種川バイパス
前例ないのですごいプレッシャーだったのではと思います。
このお侍さんは人生をかけてこの事業をしました。

鮭漁の運上金は村上藩にとって大切な財源のひとつでした。
ところが、江戸時代の中頃になると、三面川の鮭はほとんど獲れなくなってしまいました。
それまで三百両以上もあった運上金がまったく入らない年もあったくらいです。
このままでは藩の収入源である鮭漁が廃れてしまうと藩をあげて対策に取り組みました。
その時に活躍した人物が青砥武平治さんで、彼によって考えられた制度が『種川の制』です。


『種川』の文化遺産的意義は、世界に先駆けて『鮭の自然孵化増殖に成功』したことです。
また、村上藩が鮭漁に課した運上金制度を基に、その徴収システムや町行政組織に代行させた、
鮭漁の入札制度を確率させたことです。
『種川の制』は鮭を介して、村上藩の行財政システムを確率させたものであったと言えます。


【The Tanegawa system and Buheiji Aoto】
Miomote river has long been a treasure for this region as a river that has brought gifts of nature.
Generation after generation,the Murakami clan conserved salmon fishery for the Miomote river area.
Fished salmon was not only a good source of income , it also provided preserved food for people in the region,and gifts to the Central government.

The Murakami clan operated salmon fishery in Otome river under the direct management of the clan government by protecting salmon during spawning incubation,and by cultivating salmon fry.
This methodology took an advantage of salmon's natural instinct to return to their own spawning grounds.
River improvementw were made in the main stream of Miomote river as well as its tributaries to encourage spawning.
A methodology called "Tanegawa"(tane stands for species and gawa stands for river)was used.
Tanegawa is a natural breeding and multiplication methodology for salmon where an area of the stream is sevtioned off by two fences,one built upstream and one built downstream.

Buheiji Aoto and his colleagues made a great contribution to the Tanegawa system.
Buheiji,who was a low ranked official in the Murakami clan,was an excellent samurai.
Some of his contributions included making improvements to the agricultural system and to the river utilizing his knowledge and skills in river surveying.
Buheiji also made a contribution to the Murakami clan in 1775 when the clan and fisherman in the upstream of Miomote river were in a suit over fishing rights.
Using his Sanjo,he helped the Clan win the suit in the court in Edo,which enabled the Murakami clan retain"Tanegawa".

The successive river magistrates who were in charge of river management of Miomote river also made great contributions to pretecting Tanegawa and institutionalizing the system.
Between 1752 and 1780,Buemon Suzuki,Seiemon Isaka,Yaichiuemon Akasima,and Tokichi Aoto contributed by establishing the salmon auction system .(※)
Thanks to Buheiji and these river magistrates,the Tanegawa system was established around 1790 and made a significant contribution to the economies of the Murakami clan.

The salmon fishery business run by the Murakami clan during the Edo era was passed down to the Murakami salmon farming factory,established by ex-clan members.
This became the foundation for the salmon fishing and incubation industry in Miomote river,which later became the Miomote river fishery union.

(※)office years
Buemon Suzuki about 6 years
Seiemon Isaka about 11 years
Yaichiuemon Akashima about 11 years
Tokichi Aoto about 11 years


【古文書『宇治家之記』三献策(上申書)現代語訳】
越後の国村上領に下戸川(三面川流域の旧称)という川があり、
ここでは鮭漁が毎年大変盛んでございます。
どういう方法をとっているのか調べてまいりましたので、ご報告申し上げます。
この川の鮭漁の運上金は五十年くらい前までは十七両二分ほどで、
それでも請負人が損を出すこともございましたが、青砥武平治というお役人の工夫で
御止川(おとめがわ)という方法を始めましたところ、
その後は、次第に鮭がたくさん獲れるようになり、
三十年ほど前(明和4年(1767年)ごろ)には、
三十〜四十両くらいの運上金になり、
ますます鮭漁の稼ぎが多くなった由でございます。
この方法を種川といいますが、
それはこの川は、どの場所でも石底の川ですので、
鮭が子を産卵する川の瀬に毎年適所を選んで、
川幅の三分の一ほどに長さ三十間または五十間くらいの場所に杭を打って
生柴や藤蔓(ふじつる)などで水が流れ易いように囲い、
川下は鮭が入り易いように開けておきます。
そのようにすることを種川と称して御止川に指定して番人をおいております。
そして春三月になって鮭の子が川を下る季節には川漁を一切禁じておりますので、
ますます鮭がたくさんになった由でございます。
昔から言い伝えられております、その川で生まれた鮭は、その川に入ってくるというのは間違いないことのようでございます。
この種川の方法のおかげで、十四〜十五年来この川に上ってくる鮭は大変多くなったとのことで、
年々運上金も増えて昨年は千三百両余りになり、今年は千六百両ぐらいの落札価格になると聞いており、
大変役に立っている川であるとのことでございます。
越後の国に種川という方法を採っている川があることを以前から聞いておりましたので、
手紙も出し、なおまた村上領の人にも三〜四人に会って、以上の方法の話を詳細に聞いて、
川絵図なども見て参りましたので、差し出でがましいようではございますが、
最上川や赤川で鮭漁をしている者の中から選んで、この種川の法を真似てやってもらい、
三〜四年も試行してみて、鮭が年々たくさん獲れるようになれば、
将来は有益なことになると思います。
聞いて参りました種川の法の詳細な内容を口上書を以って申し上げます。
寛政九(1797)年九月  宇治勘助

これを町奉行所へ差し出したところ、
お当番竹内八郎衛門様へ取り次いで下さいまして、
留め置いて下さいました後、十月になって納屋元である三日町の治兵衛という者に、
この方法を試すよう話してくださいまして、万事よろしく指図した旨をおっしゃっていただきました。

現代語訳
著書『三面川の鮭』の中に、この現代語訳が記されております。
著書である横川健氏にご協力をいただき、書に記されたものです。

青砥武平治から内藤隼人宛書状の現代語訳
別の書面をもってお答えいたします。
御巡見(領内の巡見)に要する費用として二、三両ほど必要とのことで
重野伝太夫殿に調達方をお命じになったよし、
また私(武平治)に対しても調達金の相談に乗って欲しいむねのことでした。
それらのことは島田内蔵太殿には通達されたのでしょうか。
私は去々月(一月)二十六日にようやく帰宅しましたところ、
伝太夫殿と忠太夫の相談によって金銭の調達のため、去月(二月)五日に新潟へ出張、
大坂への回米の件も話をつけてきました。
新発田藩江戸への仕送り金は笹屋勘左衛門ですが、
八百五十両ほど不足しているといいます。
そこで笹屋と相談して、ようやく新潟で二百両を都合つけ、
その内百五十両を内密に坪川惣太夫へ渡し、
あとの不足分を調達して二十八日に帰宅しました。
ところ五人組改めの件を命じられ、又々節句後に出張のはずで、
その上、江戸藩邸での入用金を笹屋に渡さねばなりません。
(三条町笹屋は新発田と村上の江戸送り金の為替を組んでいた)
御巡見にかかる費用の調達ともども、当月中旬にも
新潟へ出張して工面しようかと考えています。
いずれにしても大坂表の米値段は安値で、
四分三升入、三分一米と言い百俵が五九表の値にしかなりません。
このような安値段では売買契約はできません、
油断していては、新発田藩の仕送り金の月賦割りにも差し支えが生じます。
大坂の米相場などいたく心にかけています。
上記につき急ぎの調金は、五ヶ組の旧冬の差引、ならびに諸勘定の取り調べで
昼夜忙しきことゆへ、内蔵太殿へ問合せすることもしませんでした。
江戸での入用金は急用と存じ、金二両をまず私より都合をつけました。
先逹ての十六両も御金の都合がつかず、手形は今だに私が預かったままです。
内蔵太殿へもお報せし、上記の二両は当月中には取締方より
受け取りたく存じますので御手形に日限をおつけになられず、
伝太夫殿の記入にて御念書を下さいますよう。
もっとも当分元方役(もとかたやく)(会計)へもお通達をなされずように。
先達て私から御用立てしたことは、かえっていかがなものかと非難めいたことを言う向きもあると、
惣太夫が内々に物語っていました。
若又(もしまた)、其地(そのち)で金子ができましたならば、ご返却下さい。
憚り(はばかり)ながら経済状態のよろしいようになされたくぞんじます。
なお追いおい申し上げます。
三月三日 
尚なおお御覧下されましたならば、書状は火中にして下さるよう願い奉ります。以上
内 隼人様(内藤隼人信統 家老職)
青砥武平治


31年間の土木工事を経て
青砥武平治さんの死後8年で完成。