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三十六人衆

[日本酒]

酢飯屋2015年7月のお酒の一つ
「三十六人衆」は真剣に酒販店経営を行い、
商品の品質の維持に協力を惜しまない店とのみ特約店契約をして供給されているお酒です。
品質の劣化を防ぐためにメーカーから酒販店に直送する方法をとっています。
味は日常の生活で晩酌、その他で飲まれるいわゆる"生活酒"を目指しているため、
特に香りのみを追わず、お燗をしても味が崩れない安心して飲める酒造りをしています。
辛口でキレがよく、しかも奥深い広がりのある味を心がけています。
名前の由来は、酒田の代官的な豪商として、自由都市堺の「会合衆」のように
自治的に町政を運営し、海上の警備も可能な軍船を商船として町兵を率いて奮戦するほどの
自治組織「三十六人衆」が由来です。

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純米吟醸
アルコール分15度
原料米 出羽燦々100%
原材料名 米(山形県産)米麹(山形県産米)
精米歩合 55%

マスカット葡萄のような芳醇な香り。
口に含めば淡麗であっさりとした口当たり。
冷やして旨し、オンザロックも旨し。
あっという間に無くなりそうです。
再注文、再注文。

三十六人衆について
さらに詳しくは菊勇さんのホームページより以下
文治5年(1189)、4代泰衡が倒され、平泉藤原氏は滅亡を迎えます。
伝承によれば、この時、秀衡の妹、徳の前、あるいは後室、泉の方とも言われる女性が、
36騎の従臣たちを従えて、立谷沢に落ちのび、
さらに酒田に逃れました彼女は泉流庵と名づけた尼寺を建て、藤原一門の冥福を祈り、
90歳でなくなるまで静かな日々を送りました。
そして、三十六人の遺臣達は地侍として住み着き、回船問屋を営んで港の繁栄を支えました。
この三十六人がいわゆる三十六人衆の始まりであるといわれています。
そして、時代は戦国時代を迎えます。
庄内地方でも豪族が入り乱れて、その興亡は激しいものでしたが、上方の堺や桑名のように、
酒田は三人の月番で12ヵ月、町行事、町政を担当する三十六人衆を中心に、
自由都市としての発展を続けてゆきました。
戦国時代の末には、最上義光が庄内を治め、酒田の豪商池田惣左衛門に「鐙屋」の屋号を与えました。
寛永年間には、鐙屋は三十六人衆の筆頭に数えられ、
井原西鶴の「日本永代蔵」に「北の国一番の米の買い入れ、惣左衛門という名を知らざるはなし」
と書かれるほど、全国でも有数の米問屋だったのです。
元和8年(1622)、最上氏に代わり、信州松代から酒井忠勝が、庄内藩の藩主として入部し
以降、明治維新までの250年間、庄内の地を治めました庄内藩は鶴岡の鶴ヶ岡城を居城とし、
酒田の亀ヶ崎城には城代を置きました。けれども酒田は、変わらずに自由な町人の町であり、
三十六人衆が団結して揺るぎない自治体制を敷いていたのです。
 酒田三十六人衆は酒田町組という町組織を掌握し、町政を担当していました。
彼らは平泉藤原氏の武士であるという誇りを持ち、酒井家の入部に際しても、
「二君に仕えずなどと申し上げ」と、武士になろうという野心もなく、町人になりきっていました。
これに対して庄内藩では、名字、帯刀を許し、宅地に対して無税としていました。

菊勇(きくいさみ)株式会社
山形県酒田市黒森字葭葉山650番地
ホームページ http://www.kikuisami.co.jp/index.html